どうしても周りが気になってしまう僕ら日本人
世界各国の人々が乗った豪華客船が沈没しかかっています。しかし、乗客の数に比べて、脱出ボートの数は足りません。
したがって、その船の船長は、乗客を海に飛び込ませようとしますが…。さて、船長が各国の人を飛び込ませるために放った言葉とは何でしょう?
アメリカ人に対して...
「飛び込めばヒーローになれますよ」
イタリア人に対して...
「海で美女が泳いでいますよ」
イギリス人に対して...
「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して...
「規則ですので海に飛び込んでください」
日本人に対して...「みなさんはもう飛び込みましたよ」
引用:
有名な国民性を表す沈没船ジョークというものがあります。これを見ると僕ら日本人の多くは、
みんながやっているからやろう!
というように、自分の行動決定にマジョリティーの行動を参考にするようです。
つまり、周りが気になってしょうがないんです。果たして本当にそうでしょうか?
目次
はじめに
冒頭で日本人は周りが気になってしょうがないのは、本当か?と書きました。
実際は、
・世の中の奥様方が旦那の勤務先でマウント取り合ったり
・多くの就活生が知名度と他の人からの評価を会社を選ぶ際の基準にしていたり
・みんながいいねと言う流行を取り入れたり
・転職する時、プライドが邪魔して無名の企業に行けなかったり
(上記の当の本人たちは、往々にして他人を気にしていることに無自覚)
・こういうコントが作られたり↓(ただ面白いだけなので、見てください(笑))
1:16~みんなやってんの!って言っていますね、その言葉が日本人の行動に影響を与えやすいという前提に立って構成されています。
挙げればきりがありませんが、このように本当のようです。
では、なぜ周りを気にしてしまうことが問題なのでしょうか.....
なぜ問題なのか
理由は下の間違いである理由の項でも説明していますが、
周りを気にしていると、日々刻々と変わり続ける周りの評価に対応し続けることを幸せとしている人以外、幸せになれないからです。
でも、そもそも他人の評価を気にして、ちやほやされることを幸せの基準にするの別によくね?だから、俺は気にしながら生きていくよ。という人がいるかもしれません。それはそれでいいと思います。ただ、僕は、他人基準で選んだ選択に後悔した経験があったり、ちやほやの効果って自分の中で長くは続かないなと気づいたから、その基準をゴミ箱に捨てようと思っているだけです。何を基準にするかは各人の自由です。ただ、あんまりいいもんじゃないと個人的には思っています。
ではでは、それにより幸せになれない人にとって問題であることが分かったところで、わかりやすくするために定義しましょう。
定義
最初に「他人を気にする」ということは
1.他人の行動に干渉してしまう
2.他人の行動に干渉されてしまう
以上の2つからなっているとします。(MECE(モレなく、ダブりなく)でしょうか??)
では、1つずつ見ていきましょう。
1.他人の行動に干渉してしまう
具体例
最近、これに関してよく考えることがありました。女優の有村藍里さんがずっとコンプレックスだった口元を整形したことに対して、Twitterなどで「親からもらった体に傷をつけるなんてなんて親不孝!」などをはじめとする批判的な反応が散見されたことです。それによって、手術自体の恐怖と戦っていた彼女は、周りからの評価の恐怖という余計なものとも同時に戦わなければなりませんでした。このように日本には(外国はとうか知りませんが...)自分の価値観を押し付けたり、出る杭を打つことに労力を使う人が多い傾向にあるようです。打っても自分の位置は変わらないのにも関わらずです。
間違いである理由
これが間違いである理由は、明白でそもそも自分と他人、隣にいる友人ですら完全に違う人間であるのに、自分の価値観や好み、常識を他人に強要することに意味はないからです。しかし、意外とやりがちです...
しかし、干渉してよい例外があるとすれば、それはある行動によって誰かが不利益を被る場合です。マイナスをゼロ以上にするための干渉はオッケーだと思っています。だから、この記事を書くのもオッケーと正当化しています(笑)
逆を考えると、やりたいことをやるということは、故意に他人に迷惑をかけてはいけないという制約を受けます。権利に対する公共の福祉みたいに。
2.他人の行動に干渉されてしまう
具体例
簡単なとこで行くと、1つ目に、Twitterやインスタで「これいいね付くかなあ、付かなそうだなあ」と悩んだりすることや、2つ目に、自分なりに何か考えを持たずに〇〇の人気ランキングや〇〇率を自分の行動の拠り所とすることが思いつきます。
他人の目なんて気にせず、好きな写真を投稿すればいいと思います!(綺麗な写真とか見ていて癒されますしね😊)
間違いである理由
1つ目の例の、他人の目を気にしすぎるという考えがなぜ間違いなのか。
それは、臆病になってしまってせっかくのアウトプットの機会をロスってしまい、自分の本当にやりたいことが出来なくなってしまうからです。
2つ目の例の、みんながやっているから、おれもやろうという考えがなぜ間違いなのか。
1.そのみんながそもそも間違っている場合
この場合、自分で決定しないで他人任せにした選択は必然的に間違ってしまいます。戦争や差別への参加、選挙いかないなどがこれに当たりますね。
2.みんなが持っているそれをやる理由を自分は持っていない場合
これは以外とやりがちです。一人一人状況が違うので当たり前と言えば、当たり前ですよね。
原因分析
ではなぜ日本人が他人を気にしてしまうのか、原因は僕が認識している限り、大きく2つあります。
1.多様性のなさによる影響
そもそも、日本のの日本人の割合(日本国籍取得者)が98%であるので、みんな顔も似てるし、白米を主食として器用に箸で食べ、家に上がるときは靴を脱ぎます。
このように、日本においては、自分と他人が一見似すぎていることにより、他人と自分の区別ができにくくなっていることが影響していると思います。しかし、よく考えてみると自分と同じ家庭内文化で育ち、同じ教育を受け、同じものを食べ、同じ友人に囲まれ、同じ姿形をした人は誰もいません。
つまり、僕らの隣にいる人は自分とは全くの別人です。
なので、前にも書きましたが他人に自分の価値観、考え、常識を強制させるのは全くのナンセンスなんです。(留学した友人も同じことを感じ、価値観の強制は無意味だと悟ったと言っていました)
2.教育による影響
それは、個人を個人ではなく集団の一部として扱い、協調性とみんなに合わせることという異なる概念を同義と捉えてしまった僕らと、そうさせるほうが管理が楽と考え実行させた教育システムの責任でしょうか。
余談ですが、先生の話を聞いて、イレギュラーな行動をせず、みんなと同じ行動をするように教育をすることは社会からの要請(必要だとして、強く求めること)だったので、仕方ありません。このように社会と教育システムが従属の関係にある限り、「日本の教育は時代遅れダー」という声はなくならないと思います(´;ω;`)。
改善に向けた行動の提案
1つ目に、原因の項でも書きましたが、
隣にいる人は別人であるという大前提を自分の中に持つこと。隣の人がコンゴの先住民族やイヌイットの人だと思うくらいがちょうどいいと思います、まじで。
2つ目に、1つめを意識した上で、課題の分離を意識すること。
心理学の三大巨頭と称される、アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話篇」という物語形式でまとめ、世界中で350万部売れた名著である、嫌われる勇気。
その中に、課題の分離というテーマが出てきます。
哲人:われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年:分離して、どうするのです?
哲人:他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年:・・・・それだけ、ですか?
哲人:およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーーによって引き起こされます。課題の分離が出来るだけで、対人関係は激変するでしょう。
嫌われる勇気 岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社 p140-141
つまり、自分と他人の課題を分離し、踏み込まない。そうすれば対人関係のトラブルを回避できると。その分離の方法は、その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰かという判断軸で評価すること。
これを意識するだけで他人に干渉しようとする自分をかなり抑えられるのではないでしょうか。
しかし、ぼくらはデフォで他人の行動に干渉されるように作られているので、”される”ことから逸脱することは実際なかなか難しいです...
なので、僕らの前に現れる大きな行動決定が、日々の小さな行動決定の傾向の影響を受けるとすれば、
3つ目に、日々スモールステップを積み重ねていく。
これがベターな方法だと思います。
つまり、大きな行動決定の際に、自分で考え、決定をするために、日々の小さい行動を他人の評価軸ではなく自分の評価軸で決定していくということです。
凄く簡単な例で行くと、夕食のメニューをみんなが頼むからという理由ではなく、自分が食べていものという基準で選ぶ。飲み会の2次会にみんなが行くからという理由ではなく、自分が行きたいかという基準で決める。これは、ノリを悪くしろというわけではなく、自分が行きたかったら飲み会を企画してもいいのです。←最近用事があって飲み会に行かないと、「同調圧力から抜け出すんだもんな~(笑)」っていじられるんですけど、見てくれてるのね、ありがとうと思いながら、違うわwって言ってます(笑)
このように、凄く小さなことから自分で決めるという癖をつけていって、大きな意思決定の際に自分で決められるようにすることが重要と思います。僕もこれ、頑張り途中です、一緒に頑張りましょう!!
まとめ
教育のところでも少し書いたように、僕らの多くは周りと同じことを是とするようにプログラムされています。なので、そのプログラムを書き換えて自分主体で選択し行動していけるかが義務教育を終えた人の裏テーマだとわりかし本気で思ってます。
いずれにせよ、アドラーのように他人はあくまで他人として自分で決定すると、周りの環境などに他責せず、自分の確かな納得感と共に歩めるような気がします。そしてこれが僕ら日本人の幸福度をちょっと上げてくれると思っています。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。😊
次回予告
次は、僕が社会人で一番好きなSHOWROOM社長の前田裕二氏の記念すべき第一作目である
について書きます!!ドラマよりドラマのような前田氏の激動の半生が綴られています。
愛があふれすぎてたぶん気持ち悪い文章になるので、お食事中の方はお控えください(笑)ありがとうございました。